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創世記: 紛失したパズルのピース

基礎が破壊されたことによって崩壊している家

発行: 2009年1月6日 (GMT+10)

西洋世界では年を追うごとに「キリスト教離れ」が進んでいる、という見解に、(世界中の)ほとんどの教会指導者は同感するだろう。

世界観

かつて聖書を土台にして建てられた諸国の国民は、今日の文化において、神(創造主)を敬う価値観の倒壊に唖然とし、クリスチャンはそれを食い止めようにも無力のように見える。 無神論、人間中心主義、共産主義、ニュー・エイジやオカルトといった、キリスト教と相容れない世界観は、教育や報道機関や1対1で、子ども大人の区別なく、強力に推し進められている。

教会が対応しなければならない課題が山積する中、私たちは自問しなければならない: どうすれば[キリスト教離れに対して無力ではなく、地の塩・世の光として]効果を出せるのか? どこに集中して努力すべきなのか? たまたまこの状態になったのか、それとも、より深い問題が潜んでいるのか? 教会指導者が様々なプログラムやカウンセリングで尽力しているにもかかわらず、[キリスト教離れに対してなかなか効果が見えてこないのは、教会にかつて有り今は]失われた何かが有る、そう思えてならない。 教会は巨大なパズルに取り組んでいるが、「紛失したピース」がなかなかが見つからないでいるかのようだ。

物事のあらゆるところがボロボロと崩れている時、私たちは基本に戻らなければならない。 土台がしっかりしていなければ、構造物は結局は腐食し倒壊するものだ。 詩篇11:3に「基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と書いてある。 この言葉を受け留め、私たちは、私たちの土台を精査すべきではないだろうか。 それによって、私たちがなぜこれらの問題に直面しているのかのより明瞭な理解への手がかりが得られるはずだ。

無神論の世界観

ところで、私たちの土台を吟味する前に、キリスト教の世界観と正反対のもの ― 無神論 ― の土台について考えよう。 無神論は、その名が示すとおり、根底的に「神はいない」と断定する。 世界観はどれも、「私たちはどこから来たか?」といった人生の大きな問いに対する答えを与える。 無神論者は、神(創造主)なしで、私たちの起源をどう説明しているのか?彼らの答えは進化論だ。 進化論は彼らに、私たちの存在に対して、神(創造主)によらない説明(つまり、自然主義に沿った説明)を与えている。 簡潔に言えば、進化論は以下のことを包含する:

宇宙の進化

何十億年も前に、時間と物質とエネルギーはいわゆる「ビッグバン」の結果、存在するようになった。 何十億年にも亘って、銀河と星と惑星は、ひとりでに形成された。

宇宙の進化

地質学的進化

地球は溶融した球体の形で現れ、やがて冷えて水ができ、海を満たすようになった。

化学進化

ある一定の時間後、生命のない化学物質が、ひとりでに最初の自己複製する[繁殖する]生物を生み出した

生物進化

上記の単純な生物は遺伝子の突然変異と自然選択により、何百万年もかけて段々複雑になり、最終的にこの惑星のすべての生物を生じた。

人間の進化

人間の進化

ついに、サルのような生物の脳の機能は高度に発達し、人間に進化した。彼らは法律や宗教や制度(結婚など)が発達した社会と文化を形成した。 進化論者は地質柱状図とそこにある化石を、これらのプロセスの「科学的証明」として提示する。

熱的死(熱力学的死)

宇宙全体はエントロピー法則の支配下にあるため、未来は究極的に「熱的死」(利用できるエネルギーが尽きた状態)であり、生命はもはや存在しない[永遠に何も起こらない]状態となる。 この後、どうにかして、すべてがしぼんで再び始まる、と想像する人もいる。

究極的な希望は無い

上述のように仮定した歴史に基づく無神論的世界観の意味は、私たちは偶然に始まり、偶然な過程で生成され、未来に対する究極的な希望は無い、である。 また、絶対的なものはなく、各自が自分で正しいと決めることの外に道徳または倫理の根拠はない、ということだ。

箱舟

無神論 対 有神論 は「科学」対「信仰」と誤って伝えられることがある。 進化論も信仰に基づく世界観なのでこの区別は正しくない。 実に、進化論者も創造論者も、研究対象となる科学的事実は全く同じだ。 創造論者が進化論者と同意しない科学的観測は一つもない。 創造論者が進化論者の結論と一致しないのは、彼らとは出発点としている大前提がそもそも違うからだ。

実際何が違うのか、それは世界の歴史に関するもので、両サイドはそれぞれ、信仰によって、違う歴史を信奉している。 なぜ信仰によらなければならないのか? 過去に戻って最初の生命体の進化を、あるいは神(創造主)が宇宙を創造するのを、見ることはできないからだ。 要するに、過去に何が起こったかについての人間各自の解釈は、究極的に信仰によって受け入れられる。 [しかし、信仰だから科学は関係ないといっているのではなく、]科学的方法を用いて現に今ある証拠を観測しその証拠によってどちらの歴史が最もよく裏付けられるかは、査定できる。

パズルのもっとも重要なピース: キリストは私たちの罪のために死なれた

多くのクリスチャンは創造論/進化論は枝葉の問題であり、無益で集中すべきでない領域と思っている。 多くは、不和[対立]を生じさせるもの、福音宣教とほとんど無関係のもの、と捉えている。

これが枝葉の問題か否かを明らかにするために、ほとんどすべての福音主義教会の教えの核心について考えよう。 ほとんどどのクリスチャンも、キリスト教の世界観の最も重要なピースは私たちの救い主、イエス・キリストである、ということに同意する。 聖書は、イエス様が「最後のアダム」となって人類の罪のために十字架上に死んで私たちが当然受けなければならない罰を代わりに受けたことによって最後の審判の日にその刑罰(神から永遠に離別され地獄で永遠に苦しむ)から免れる道を信じる者に開いた、と教えている。

処女降誕

処女降誕

クリスマスという伝統は、旧約聖書に預言された出来事、イエス様の降誕、から発生した。 キリストは「処女より生まれた」罪無き神の御子、すべての面で完璧であったので、唯一受け入れられるに値する犠牲として、人類の罪を身に負うことができた。

復活(よみがえり)

復活祭イエス様の復活(よみがえり)、罪と死に対するイエス様の勝利を示すお祝いである。 イエス様はニコデモに新しく生れることについて話したとき、これらの「地上の」つまり現実の時空の出来事と霊的真実との間の関連を認めた。

イエス様は語っている: 「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。」(ヨハネによる福音書3:12) 聖書が明らかに伝えているのは、もしこれらの出来事が実際に起こらなかったのなら、私たちはいまなお罪の中にいることになり、私たちの信仰もまたむなしい、そして、私たちはすべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

では、十字架上の死はなぜ必要だったのか? イエス様はなぜその身の毛もよだつ死を経験しなければならなかったのか? このことを理解するためには、私たちは旧約聖書に根ざしている私たちの信仰の土台に戻らなければならない。 イエス様は「…と書いてある」または「…を読んだことがないのか」と言うたびに、旧約聖書の権威を認めていた。

創世記はイエス様が来られた理由の明白な理解を私たちに与えている。 それは、人類の家長、最初のアダムが引き起こした問題を解決するためだ。

創造

聖書は神の完全な世界、全てが「はなはだ良かった」楽園の創造を描写している。 創世記1:29によると、人と動物は植物を食べた(肉食はなかった)ので、流血はなかった。 罪も腐敗も死もなかった。

堕落

堕落

神はアダムに善悪を知る木の実を食べてはならないとの命令を下し、もし食べたら、死がその結果である、と語った。 残念ながら、アダムは与えられた自由意志を、神様に対する明らかな反逆という形で行使することを選んだ。

その結果、神は地を呪い、苦しみと死がこの世に入った。 アダムは人類の家長であったので、彼の罪の性質はそのすべての子孫に伝わった。 ローマ人への手紙5:12に書いてある: 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」

人類は今、神から離れている状態にあり、肉体的に死亡するだけでなく、霊的にも死んでいる。

審判

創世記6章に、神が地球規模の大洪水によって悪者を裁いたことが書いてある。 この大洪水には、「…天の下の高い山々は皆おおわれた。」(創世記7:19)。 この裁きは、義人ノア、ノアの家族、箱舟に乗った陸上動物[と鳥類]以外、すべての陸上に生きているものを壊滅させる、という特定の目的のために送られた。 これは、化石記録(世界中の堆積岩に埋められた何十億個もの死んだもの)の因果関係の説明としてぴったりだ。

大洪水は来るべき裁きの類例であって、ペテロの第二の手紙3:6-7に語られている: 「その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」

律法

その後、神はモーセを通して律法を制定した。 これは正邪および社会的教理を教えた。 最も重要なこととして、人間は神の基準に達することができないこと、つまり、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ人への手紙3:23)を示した。 パウロも語っている:「…律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。」(ローマ人への手紙7:7) 罪と裁きの自覚はキリストの十字架に哀れみを求めるよう人々を導く。

回復

回復

聖書にある祝福に満ちた希望は、来るべき裁きの後に、神は地球を罪と死に関してはじめにあった状態に回復することだ。 そこには「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない …」(黙示録21:4) 私たちには新しい、腐らない身体が与えられる。 最後の敵である死は滅ぼされる。

基礎的知識 ― 造りかえる力 ― 祝福に満ちた希望

完成、堕落、審判、救いと回復。 これは世界と人類の歴史の「全体図」として、キリスト教会が1800年にも亘って、教え、受け入れていた。 約200年前までは、西洋では、ほとんどのクリスチャンでない人々さえ、この歴史を受け入れていた。 では、何が変わったのか? 教会が抱えている課題との関係はあるのか?

およそ200年前に、ある人々が 岩と化石をノアの洪水の結果ではなく、何百万年もの歴史の記録として再解釈したとき「何百万年」という考えが普及し始めた。 岩に「記録」されている有史以前の長い年代、という考えはダーウィンの進化論のために道を開いた ― その「ゆっくり、徐々に進む」と仮定されたプロセスは計り知れない長い時間を必要としていたが、それは「長い年代」地質学によって与えられたものだ。

今日、こういう長い年代という地球の歴史はほとんど全ての公立教育機関で推し進められている。 これまでクリスチャンの多くがこの「歴史」のあらゆる部分を受け入れ、聖書と調和させようと試みてきた。 多くが、神(創造主)は進化を用いたのだろうか、あるいは、進化過程の何百万年は聖書の教えに適合しているのだろうか、あれこれ思案する。 科学と宗教は別々の思考の分野であって、聖書は現実の世界とは何の関係もないと感じている人々もいる。 多くは単に、これは枝葉の問題だと思っている。

正反対の世界観

世界観

ここで、進化論ストーリーの一つの側面だけを見て、それがキリスト教の神学へどう影響を与えるか考えてみよう。 動物と人間の進化それ自体を信じないクリスチャンの多くは、にもかかわらず、何百万年という地球の歴史は信じている。 その前に言っておくが、何百万年という考えは、世界中いたるところにある堆積岩層がどのように形成されたかについてのひとつの解釈から来ている ― 徐々にゆっくり堆積したとされており、しかも化石を含んでいる。

「何百万年」を聖書のどこに差し込むのか?

この何百万年をアダムとエバの記録の後に差し込もうとは実質的に誰もしないだろう。 アダムとエバが登場する前に差し込もうとする。 でも、もしそれが事実なら、化石記録 ― つまり、死の記録! ― と調和させなければならない。 古生物学者は化石記録に肉食活動も、ガンの腫瘍も、とげも発見している。

罪の前に死

骨の上の園のアダムとエバ

神学的に、これは甚大な影響を与える。 何百万年という考えを受け入れると、アダムが罪を犯す前に、何百万年分の死と病気と流血があったことになる。 これは聖書の明らかな教えと矛盾する。 創造主なる神は完成した創造を「はなはだよかった」と宣言しており、死は、アダムが罪を犯した結果もたらされた、とある。

このように聖書に何百万年の時間を入れると、とたんに聖書のあらゆる部分が意味をなさなくなる; ローマ人への手紙「…罪の支払う報酬は死である。 …」 アダムが罪を犯す前に死があったなら、罪の報酬はいったいか? ローマ人への手紙5:12「… ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた …」 死がすでにあったのなら、アダムの罪が原因で世に入ったことはあり得ない。 ヘブル人への手紙9:22「… 血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」 流血がすでに何百万年も前からあったのなら、血を流すことは罪のゆるしと何の関係があり得るのか?

これは福音に影響する

復活パズル

イエス様はアダムの罪がもたらした負債を返済するために来たので、これは直接、福音のメッセージに影響する。 イエス様は肉体的に死に、自身の血を流して、罪と死に打ち勝った。 そして将来再び来て、世界を「はじめに」あった状態に回復する、と約束した。 人間が罪を犯す何百万年も前から流血があったのなら、神(創造主)は、将来、世界をどの状態に回復するのか?

もし地球の年齢が本当に何百万年なら、創造の記事は歴史というよりむしろ神話みたいだ。 でも、これはイエス様の教えと一致しない。 イエス様はヨハネによる福音書5:46―47で、「『… もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。 モーセは、わたしについて書いたのである。 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか』。」 と言って、モーセの書いたものに直接お墨付きを与え、モーセの書いたものを[本心から]信じないことに対して警告を与えた。

今日、ほとんどの不信者は、モーセの書いたものを否定する、従って、キリストの教えも拒絶する。 創造は進化の観点から考えられ[つまり、神話として否定]、罪は「楽しい何か」、そして律法はもはや「神が定めた善悪」ではなく、自分が好き勝手に決めるもの、と思われている。また、地球規模の大洪水を信じることは、ほとんど全般的に拒否されている。

クリスチャン[つまり、イエス・キリストに従おうとする人]でありながら、モーセの書いたもの[イエス様が承認したもの]を否定して、イエス様の教えにすがりつく立場には、一貫性がない。 残念なことに、ほとんどのクリスチャンよりも、無神論者はこの一貫性のなさをよく理解していて、クリスチャンの世界観の土台を壊して自分たちの世界観を推し進めようと、これに付け込む。 無神論者リチャード・ボーザースが1978年2月号のAmerican Atheist(アメリカの無神論者)誌に書いた言葉をご覧ください:

「イエスの生と死の理由づけは、すべて、アダムの存在および彼とエバが食べた禁断の木の実の存在に基づいていることが、今や明らかになった。 原罪がなかったら、だれが贖いを必要とするのか? 死で終わる罪まみれの生活へのアダムの堕落がなければ、キリスト教は何のためか? 虚しいばかりだ。 これは要するに、キリスト教は創世記にある創造の記事を喪失するわけにはいかない、という意味だ。… キリスト教はまさに命懸けの闘いをしている。」

枝葉の問題ではない

創造/進化のディベートは枝葉の問題どころではなく、キリスト教の世界観に対する攻撃の最前線にある。 クリエーション・ミニストリーズ・インターナショナル(CMI)は神を尊ぶ「先ず聖書」アプローチの立場から、起源という極めて重要な分野において牧師や教会指導者が会衆を装備するのを支援するために存在している。

クリスチャンのほとんどが科学と聖書について疑問を抱いており、そのため多くが信仰に対して内心の葛藤がある。 世間はこれらの分野で厳しい質問を浴びせ、クリスチャンの多くは答えるには十分な準備ができていないと感じることから、宣教は困難になってしまう。 モーセの書に対して生じる疑問のため、イエスの福音を伝えることが難しいことが多い。

恐竜については? カインはどこで妻を得たのか? 創造主が存在することがどうしてわかるのか? 進化論については? ノアは動物のすべてを箱舟に乗せることができたのか? 洪水は地球全体を覆ったのか? 年代測定の方法については?

教会を装備する

CMIの講師(その多くは博士号を持つ科学者)は教会からの招きに応じて、これらの質問およびその他のたくさんの質問に対して、聖書の権威から一切外れずに、真面目で非対立的な仕方で、答えを説明する。

会衆に、科学が創世記に書かれてある通りのことを支持しているたくさんの事例を見せることができる。 講演はテンポの良いパワーポイント画像が使われ、中学生以上なら誰をもひきつけ、あきさせない。

30年間のミニストリーを経て、私たちに寄せられた証しから、あるパターンが現れてきた。 講演の後、人々は神の言に胸を躍らせるようになり、論理的に弁明できることがわかると、もっと大胆に証し始めるのだという。

私たちの講師1を予約したい方、または詳しく知りたい方は連絡先をご覧ください。 メールはこちら: events@creation.info

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参考文献・備考

  1. CMIの講演は、創造/進化の問題(これが、キリストへの信仰に対する反対理由でもっとも多い)に関して多くの人が抱いている異議や疑問に対して、単純明快な答えがあることを知らせ、説明します。 詳しくは、「What we do(私たちがすること)」ページの「講演とダイレクト・ミニストリー」をご覧ください。本文に戻る