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Refuting Evolution
by Jonathan Sarfati

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「それは 科学 じゃないです」

筆者:

発行: 2002年2月28日 (GMT+10)
改定: 2014年9月18日
このような言葉で、進化論者の教師が、疑うことを知らない学生に一般進化論(GTE)を信じ込ませることが少なくないが、ここでは「進化」という語の多義性に由来する誤謬が犯されている。 「私は実験室で進化が起こっているのを見てるんだ。 進化は事実だよ。」

このような言葉で、進化論者の教師が、疑うことを知らない学生に一般進化論(GTE)を信じ込ませることが少なくないが、ここでは「進化」という語の多義性に由来する誤謬が犯されている。

創造論に反対する人たち(例えば無神論者はその名のとおり)は、反対する理由としてよく「創造論は宗教で、進化論は科学だから」と言う。 その主張を擁護するために、彼らは「真っ当な科学理論」の定義の基準リストを引用する。 よく引用される基準の一つは、現職の科学者の大半が、有効な科学として受け入れている理論であること。 もう一つは、検証できる予測を立てることが可能な理論であること。 進化論者はよく、進化論は確証された予測を多く立てた実績がある、と主張する。 彼らは、細菌の抗生物質耐性といったたぐいのものを進化論の「予測」のようなものとして引用する一方で、創造論モデルに対しては、モデル自体の価値や、その予測能力に疑問を呈する。 彼らに言わせると、創造論は彼らの「科学」の定義から外れるので、それは「宗教」であり、従って単に無視してもいいもの、なのだ。

そもそも科学とは何か?

「科学」を定義しようとする多くの試みは循環的だ。 現代の科学者に許容されるものでなければ科学ではない、という主張は、端的に言えば、科学とは「科学者がすること」と定義しているのだ! 実に、その定義の下では、経済学の理論も「現代の科学者」が科学の理論として許容するなら、そうなる。

人生観(人生哲学)はデータから出てくるものではなく、逆に、哲学がデータに持ってこられて、データを解釈する際に用いられている。

多くの場合、これらのいわゆる「科学の定義」はあからさまに虫のいいもので、しかも矛盾している。 たくさんの進化論提唱者が、創造論は(彼らによれば)検証不能だから科学的ではない、と主張した。 ところが、同じ段落で彼らは「科学者が創造科学の主張を精査したところ、若い地球や地球規模の大洪水という考えは証拠と相容れないことを確認した」と主張している。 しかし、創造論が「検証不能」なら、調べられて(検証されて)、間違っていると確認できたはずがないのは明らかだ!

「科学」の定義は20世紀の科学哲学者を悩ませることとなった。

そもそも、科学的方法の創始者と考えられているベーコンのアプローチはかなり簡単明瞭だった:

 観測 → 帰納 → 仮説 → 実験で仮説をテスト → 立証/反証 → 知識

当然ながら、上記、および近現代科学へのアプローチのすべては、因果律1と帰納法2という二つの大前提(仮定)の上に成り立っている。 哲学者ヒュームは、この二つの仮定は「盲目的信仰」(バートランド・ラッセルの言葉)により信じられていると明言した。 カントとホワイトヘッドはその問題を解決したと主張したが、ラッセルはヒュームが正しいと認識した。 実に、これらの仮定は、ローレン・アイズリーなどの科学史家が認識したとおり、聖書の創造主なる神に対する信仰から生じた。 科学者の多くは哲学と神学にあまりにも無知で、自分がこれら(およびその他)の形而上学的前提に立っていることすら気づいていない。 徐々に熱している水の中にいるカエルのように、多くの科学者は、「科学」として通っている多くのものの根底には先ず哲学的前提があることにさえ、気づかずにいる。 これらの前提が知らず知らず彼ら自身の世界観の一部となっているから、気づかないのだ。 私たちCMIの世界観にも、啓示(つまり聖書)を受け入れている、という前提があるが、私たちはこれを「率直に」認めている。 無神論者の多くとは異なり、私たちは、人生観(人生哲学)はデータから出てくるものではなく、逆に、哲学がデータに持ってこられて、データを解釈する際に用いられている、ということを認識している。

知覚と偏見

重要な質問は「それは科学か?」ではない、なぜなら、今日多くの進化論者がするように、自分が好きではないものはすべて(「科学」から)除外するよう好き勝手に「科学」を定義することが出来るから。 今日、科学は自然主義と同一視されている。 たとえどんな証拠があろうとも、唯物論主義的な観念だけしか相手にされない。 有名な進化論者、リチャード・レウォンティン教授は言った(強調は原文どおり):

「我々は科学の側に立つ、 科学の構造の一部は明白に不合理である にもかかわらず、 健康や生活に関する科学の大胆な約束の多くが履行されていない にもかかわらず、 実証されていない「いかにもそれらしい」ストーリーを科学界が許容している にもかかわらず だ。 というのは、我々にはより重要な傾倒、唯物論への傾倒がある。 科学の方法や慣習がゆえに現象界の唯物論的な説明を受け入れざるを得ないのではない、むしろ、我々の唯物論的原因への先験的執着ゆえ、無理にでも唯物論的説明を生成する研究方法と概念群を創作するのだ ― それらが例えどんなに直感に反していても、手ほどきを受けていない者にはどんなに不可解であっても。 しかも、それは絶対唯物論だ、神の足を一歩たりともドアの内側に入らせるわけにはいかない[つまり、創造主の概念を一切許容してはならない]のだ。」3

ずいぶんと心の広いことではないか。 「科学」とは証拠の導くところへはどこであれたどっていくものではないのか? ここに、科学者の宗教(最広義の宗教)が自分自身に遮眼帯[馬の視野を狭くするもの]を掛けるという事態が発生している。 私たち個々の世界観は私たちの知覚を偏らせる。 無神論者・古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドは次の率直な所見を述べた:

「世界について学ぶ方法は、各科学者がどの問題にもどうしても持ち込んでしまう社会的先入観と偏った思考様式に強く影響されている。 完全に合理的かつ客観的な『科学的方法』とか、個々の科学者は論理的な(しかも個人差のない)ロボットのよう、という固定概念は虫のいい神話にすぎない。」4

要するに、根本的に重要な質問は「どの世界観(偏見)が正しいか?」だ。 なぜなら、この質問の答え次第でどんな結論ならデータから導き出しても許容されるかが決定されるだろうから。 例えば、生命の起源について考察する時、唯物論者は、生命は超自然的に創造されたに違いないという結論を避けるためなら、あらゆる手を尽くす傾向がある。

科学 ― 創造論者がもたらしたもの

近代科学の創始者らはもちろん、唯物論者ではなかった(史上最高の科学者と広く認められているアイザック・ニュートン卿は最たる例)。 彼らはまた、彼らの科学を、なんらかの理由で超知性を除外すべきものとか、ましてや、創造主なる神をもはや不要と見なすことなどなかった(参照(英語): The biblical roots of modern science: A Christian world view, and in particular a plain understanding of Scripture and Adam's Fall, was essential for the rise of modern science.(近代科学の根源は聖書: キリスト教の世界観、特に聖書とアダムの堕落についての平易な理解は、近代科学の台頭に欠かせないものだった))。 創造主なる神を除外するなどという最近の概念は唯物論者によってこっそり科学に持ち込まれた。

唯物論者は、進化論は「科学」で創造論は「宗教」と定義しようとするが(そうすれば創造論を無視することを正当化できる)、論理的に有効な定義方法はない。

カナダ人科学哲学者マイケル・ルースも、進化論は科学で創造論は宗教、という区別は、本当のところ有効ではないからそれは論点ではなく、論点は「真理の一貫性[真理なら矛盾がない]」というような[客観的な]ものでなければならない、という重要な指摘をした。 参照(英語): The religious nature of evolution(進化論の宗教的性質)

換言すれば、唯物論者は、進化論は「科学」で創造論は「宗教」と定義しようとするが(そうすれば創造論を無視することを正当化できる)、論理的に有効な定義方法はない。

有効な区別

しかしながら、科学には二つのタイプがあり、有効に区別できる。 つまり、起源の科学と実験科学という区別だ。 実験科学は、今日の世界で、ものがどうやって機能するかを調べる ― 繰り返すことも、観測することもできる現に今起こっている現象を扱う。 これは、例えば、ニュートン、アインシュタイン、プランクの科学だ。 それに反して、起源の科学は、過去のものの起源 ― 一回限りの、繰り返すことも、観測することもできない出来事 ― を扱う。 「歴史科学」とも言われるのはそのためだ。 両方は「科学」と呼ばれており、そして実験科学は起源(または歴史)科学に影響を与えることもあるが、手法の面でこの二つの間には根本的な違いがある。 実験科学は、今この場で、繰り返すことができる実験を伴う。 起源の科学は、ものが過去にどうやって現れたかを扱うので、実験で検証/観測ができない(誰かが「タイムマシーン」でも発明しない限り)。5

起源(歴史)科学は実験科学とまったく違う。 過去を対象に実験はできず、データの解釈は主に研究者の世界観によって動かされている。
起源(歴史)科学は実験科学とまったく違う。 過去を対象に実験はできず、データの解釈は主に研究者の世界観によって動かされている。

もちろん、実験科学と起源の科学の混同は、多くの唯物論者には都合のいいことだが、ほとんどの場合、その混同は無知によるものと思う。 大学などの科学課程では、大抵は科学哲学を教えないし、確かに実験科学と起源(歴史)科学の区別を教えない。

進化論も創造論も「起源の科学」に区分される。 両方とも哲学的な考えによって動かされている。 データ(現在の観測データ)自体は同じで誰もが入手できるが、異なった解釈(ストーリー)が考案され、それぞれが過去に何が起こったかを説明しようとする。

ところで、この実験科学と進化論の区別は創造論者の創案ではないことに注意して欲しい。 エルンスト・マイヤーE.O.ウィルソンといった著名な進化論者らも、この区別を認めた。

歴史科学を区別なく「科学」に含めることは、間違いなく、科学の定義についての現代の混乱の一因となった。 これはグールドの上記の記述をも説明する。 彼は古生物学者として、実験科学と彼の分野である歴史科学との間に区別がなければいいと思っただろう。 彼は自分がやっていた科学では、前提が最も重要であることを正しく[十分]認識してはいたが、それは全ての科学に等しく言えることだと誤解した。 いくつかの前提は実験科学にも大切な役割を果たしてはいるが、全ての科学に等しくとは言えない。6

あなたはお湯を信じる?

実験科学は証拠によって動かされているので、創造論者は実験科学にまったく異存はない。 クリスチャンであれ、イスラム教徒であれ、ヒンドゥー教徒であれ、無神論者であれ、海抜ゼロメートルでの真水の沸点は100度Cだ。 それでもなお、熱心なヒンドゥー教徒はすべてが空想と思うかも知れないし、ポストモダニズムを信奉する無神論者の中には「真理」こそが空想という人もいる。 一方、起源(歴史)科学は哲学によって動かされている。 人がどのようなストーリーをもっともらしいと認めるかは、根本的にその人の信仰体系による。 さて、もし、起源(歴史)科学の従事者の過半数が間違った信仰体系(唯物論)を持っているなら、彼らが認めるストーリーも間違ったものになる。 したがって、「現代の科学者」による多数決は、それぞれのストーリーの正当性を決める方法として、到底いい方法とは言えない。 それに、起源(歴史)科学は、本質的にストーリーを物語る演習だ ― レウォンティン教授は上記の引用で、このことをほのめかした。 元ハーバード大学総長ジェームズ・コナントにいたっては、歴史科学をしばしば特徴付ける虚構シナリオに対する酷評で、この点をガツンと指摘した。 この記事もどうぞ(英語): Naturalism(自然主義)

証拠も重要

私は、歴史科学において前提(世界観)がどのストーリーが許容されるかを決める、と指摘しているが、単にそれらの哲学的/宗教的前提だけの問題だと言っているのではない。 それぞれのストーリーは、依然として、証拠のすべてを論理的に首尾一貫して説明できるものでなければならない。 言い換えれば、提供されたストーリーは証拠によって検証できる場合が多い。 例えば、夾炭層(石炭が入っている地層)が何百万年にも亘って堆積した、というストーリーは、根が折れて、それらの地層を貫いている多層貫通木の化石の証拠によってきっぱりと否定されている(周りに地層が何百万年かけて堆積している間、ずっとそこに立って(なお朽ちずに)いられたなどどうしてありえようか?)。 進化論のストーリーと矛盾する事実は他にも数多くある: 数十億年と主張されている地球の年齢に反する101個の証拠がここに揃えてある: (英語)Age of the earth(地球の年齢)。 生物進化のストーリーを否定する証拠も多々ある: 進化論を信じている人への15の質問をご覧ください。

夾炭層が何百万年にも亘って堆積した、というストーリーは、それらの地層を貫いている多層貫通木の化石の証拠によってきっぱりと否定されている。

もし、同一データに、二つの真逆の、それぞれ論理的に首尾一貫した解釈が可能なら、ローマ人への手紙1章が「万物が神によって創造されたことは物理的証拠から明らかだから、それを否定する人々には弁解の余地がない」と言える根拠はまったく無いことになる。

「真理の一貫性」の有無がテストとしての役割を果たす ― つまり、歴史の本当の説明なら、証拠全体を通して矛盾なく(論理的に首尾一貫して)説明しているはずだ。

用語の定義にも一貫性を!

唯物論者は議論に合わせて、進化論の定義をずらす。 これもまた彼らには好都合だ。 明確にしておくが、本稿で議論している「進化論」とは、一般進化論(The General Theory of Evolution - GTE)で、進化論者カーカットによって、「世界中のあらゆる生物は単一源から生じた、そしてその源自体が無生物からきた、という学説」と定義されたものだ。7 彼らの多くは、たぶんうっかりなのだろう、細菌の突然変異が「進化論」を確証するかのようにほのめかすとき、この定義をずらすという手を使う。 だがこれは、「水素が何十億年に亘って人間に変わった」という信仰の正当性を示すこととは、まったく無関係のことだ。 その極めて重要な違いは、一般進化論(GTE)に必要なのはただの変化ではなく、生物圏の情報量を大幅に増加させる変化だ。 ここも参照(英語): discussion of definitions(定義の議論)

予測? それとも 後付け?

進化論者の多くは、細菌の突然変異と抗生物質耐性(実験科学)は進化論(起源の科学)による予測のようなものだ、と言い張る。 しかし、実は、遺伝学(実験科学)は進化論にとって困りものだった。 これがメンデルの先駆的な遺伝学研究が長年重要視されずにいた一つの要因だった可能性がある(メンデルの不連続な遺伝子の発見は、連続的な無限の変異というダーウィンの考えに合わなかった)。 突然変異が発見されたとき、これはダーウィン主義を実験科学の観測と調和させる手段として考えられた。 こうして、マイヤー、ホールデン、フィッシャー等の「ネオダーウィニズム」総合説が出てきた。

では、進化論による予測と創造論による予測を 比較 してみよう。 進化論の実績はかなり惨憺たるものだ。 参照(英語): How evolution harms science(進化論はどのように科学を害するか)。 一方、現代科学は過去の創造論者の成果の上に立っている。 参照(英語): How important to science is evolution?(進化論は科学にどのぐらい大切か?)Contributions of creationist scientists(創造論者の科学者による貢献)。 創造論モデルに基いた現代の科学的予測の一つの明らかな例として、(英語)Beyond Neptune: Voyager II Supports Creation(海王星の向こう: ボイジャー2号は創造論を支持)をご覧ください。

進化論による「予測」の多くが現実の観測とは相容れないことが明白になったのに、進化論の支配は止まらない。 例えば、進化論が事実ならあるはずの何百万個の中間型化石が皆無であること(参照(英語): Are there any Transitional Fossils?(中間型化石はあるのか?))。 化石記録の全体としてのパターン自体が進化論から予想できるパターンと全然合わない。 例えば、参照(英語) The links are missing(リンクは見つからない)。 進化論者グールドはこの難問について長々と書いている。

進化論者の期待とは裏腹に、抗生物質耐性や殺虫剤耐性などの事例は、生化学レベル(つまり、実験科学)で研究されたがde novo(真に新しい)複雑な遺伝的情報の創出を伴うものは一つもなかった。 実際、進化論者が抗生物質耐性を予測したことはなかった。 というのは、それは実際のところ医療分野にとって予想外の出来事だったから。 参照(英語): Anthrax and antibiotics: Is evolution relevant?(炭疽と抵抗性物質: 進化論は関係ある?)

進化論者の期待とは裏腹に、繁殖の実験は限界にぶつかる ― 変化は無限にはできない。 創造論者の遺伝学者 Lane Lester による記事参照(英語)。 これは、創造主は生物をその種類にしたがって繁殖するように創造した、と書いてある創世記1章から期待できることと一致する。

進化論による「予測」の失敗のもう一つは、いわゆる「ジャンクDNA」だ。 進化論者は長年、人間のDNAの98%はジャンク、つまり進化論で私たちの「祖先」とされたものからの単なる残り物だ、と主張していた。 この考えはこの「ジャンク」部分の機能の発見を妨げた。 現在は少なくともその80%は機能があることが分かってきており、恐らく100%機能があるだろう。 参照(英語): Dazzling DNA(目覚しいDNA)

進化論者は、適切な状態さえあれば、生きた細胞が自然に出来上がる(自然[偶然]発生)と期待した。 創造論者はそれは不可能だと言った。 実験科学はその進化論の考えを見事に打ち砕き、今や進化論者の多くが生命の起源をディベートから外そうとしているほどだ。進化論提唱者の多くが、これは進化論の範囲外だと主張するけれども、自然[偶然]発生の説は通常「化学進化」と呼ばれている。 考えられるありとあらゆる進化論的シナリオの数多くの重大な問題を説明している記事、Origin of Life(生命の起源)(英語)をご覧ください。

注意: 予測の成就を仮説の証明として主張することは後件肯定の虚偽という誤謬として知られている。 一方、ある予測が間違いだと証明されたら、それはその命題の正式な反証となる。 つまり、進化論は多数の予測の失敗によって正式に反証されてきた。

反証されても放棄されない

それなのに、進化論者らはなぜその穴だらけの仮説に固執するのか? 多くの進化論者は、それ以外のことを聞いたことがないからだ。 熱心な唯物論者には、これが「唯一のオプション」だ ― 万物ができたことを説明しようとする唯一の唯物論的ストーリー、唯物論者の創造神話だ。 諺で、ダチョウが頭を砂に埋めて砂の下に見えるものだけが存在すると考えることに少し似ている。 そのダチョウの世界観は、都合の悪いすべてのものを除外する。 砂の中の暗闇には、すべての受け入れ難い事実はもはや存在しない。

これほどの反証にさらされてもなお続く進化論的考え方への固執は、唯物論の哲学的前提である無神論が真実より優先されていることが許されていることを意味する。 どんな証拠があっても、そのパラダイムが優先される。 なぜなら、世俗主義者は「神(創造主)の足を一歩たりともドアの内側に入らせるわけにはいかないのだ」。 進化論を支持することに失敗した議論はここにまとめてある(英語):Arguments evolutionists should not use(進化論者が使ってはならない議論)

暗闇に光を!

イエス・キリストは三位一体の神(創造主)の第二位格が人間の形を取って「世の光」として来られた方である(ヨハネによる福音書8:12)。 (参照(英語): The Incarnation: Why did God become Man?(受肉: 神(創造主)はなぜ人になられたか?)) 神(創造主)の光で暗いところを照らすために来られた。 神(創造主)なしに生きるのが真の暗闇 ― 自分は宇宙の偶発事件、ある進化論者が表現したように「配列の異なるアオミドロ(池の浮きかす)」であるかのように生きるのが。 悲しいことに、多くの人々はだまされてそのように考え、その悲惨な結果として、私たちは青年の自殺、麻薬問題、家庭崩壊、暴力などがエスカレートしていくのを目撃している。 イエス様の光に照らされることが私たちにはどんなに必要だろう! 神は私たち一人ひとりに責任を問う ― 私たちはだれも皆、神から罪を宣告されて当然の身だ。 だが、聖書が語っているとおり、神は私たちが謙虚に赦しの必要性を認めて神に立ち返るならば、そうするすべての人のために、イエス・キリストを通して逃れの道を備えてくださった。 参照(英語): Good News(よい知らせ)

上記の課題およびその他の情報を得るには、Q&A セクションをご覧になるか、検索ボックスを使って、興味のあるトピックの記事を検索してください。

参考文献

  1. 因果律: 全ての結果や事象は、それを説明するのに十分であるその前の何かに起因する、という原則。 理性の基本的な原則の一つ。本文に戻る
  2. 帰納法: 限られた観測から引き出された結論は宇宙全般に適用できる。本文に戻る
  3. Lewontin, R., Billions and billions of demons, The New York Review, January 9, 1997, p. 31. 本文に戻る.
  4. Gould, S.J., Natural History 103(2):14, 1994. 本文に戻る.
  5. 望遠鏡を通して一千光年遠方の星を見ると、その星の一千年前の状態を観測しているので、過去を観測しているのではないかと異議を申し立てる方がいるかも知れません。 しかし、観測されているのは、その瞬間に望遠鏡に入る光線である。 それらの観測は、一千年前のその星について語られることは推定である(どんなに合理的であっても)。 又、実験(原因とその結果を繰り返して観測することが必要)をすることが出来ない。 天文学の観測は前提に動かされている解釈に左右されることの例として、Clear picture—blurry story?(はっきりした画像 ― ぼやけたストーリー?)を参照ください(英語)。 本文に戻る
  6. 参照: Sarfati, J., Why does science work at all? Creation 31(3):12–14, 2009. これらの前提が論争的ではないのは、関係者全員が暗黙のうちに真実として受け入れているから。本文に戻る.
  7. Kerkut, G., Implications of Evolution, Pergamon, Oxford, UK, p. 157, 1960. 本文に戻る
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