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信仰と事実

聖書に基く世界観は、信じない人には「弁解の余地がない」ほど、証拠を最もよく説明するが、その理由を説明する。

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発行: 2016年3月1日 (GMT+10)
真実に対する戦い
入手できる事実(化石、岩石など)自体はどの人もみな同じで、その事実をどう解釈するかは、各人が持ち込むいくつかの前提、または世界観に大きく左右される。 しかしながら、どの証拠も首尾一貫して説明する卓越した世界観が一つあるので、『彼らには弁解の余地がない』(ローマ人への手紙1:20)。

「神がすべてを創造したことを証明してみせて!」と言われたことはありますか? あるいは「神が存在することを証明してみせて」と詰め寄られ、答えを試みたけれど、何を言ってもことごとくはね返されるという、まるで煉瓦の壁のような抵抗に遭った経験はありますか? あなたの友人は「あなたは信仰だけで、証拠がない。 私は証拠に基くことを信じるのだ。」とさえ言うかもしれません。

ここで何が起こっているのでしょう? あなたの友人は、あなたとは出発点、つまり世界観が違うのです。 世界観とは、すべてを覆っている包括的な見解で、彼/彼女はその見解を通して、証拠を解釈します。 今日の西洋における一般的な非キリスト教の世界観は、聖書の神を否定する自然主義に基く世俗主義/無神論です。この世界観には、万物の創造神、ましてや聖書が示す唯一の神の居場所はなく、聖書に記録されている神の働きの歴史など論外とされます。 あなたの議論が無視されるのも無理はないようです。

聖書は、これらの人々が神を排除する見解を採ることに対して、弁解の余地はないと言っています。ローマ人への手紙1:18に、彼らは不義をもって真理を押しのける、なぜなら、神の存在は被造物から明らかに認められるから、と書いてあります(19節~)。

この世俗主義/無神論の世界観の枠組みの中で、高度な知性を持つ人たちが、宇宙も、生命も、地球の多様な生物も、すべて自然にできあがった、という説明を何としてでも成立させようと、賢い響きを帯びたメカニズムの案出を熱狂的に試みています。 この[宇宙の起源+生命の起源+「種」の起源(生物多様性)を論じる]大掛かりな理論体系を進化論と言います。 彼らは、これらのことがどのように起こったかを本当に知っているかのような印象を与えるために非常に多くの労力を費やします。 その労力の多くは、自分自身を納得させるためでさえ、あるのかも知れません。 上述の押しのけは必ずしもすべて意識的にしているとは限らないからです。 彼らはこれは「科学的見解」なのだと、嫌になるほど主張しますが、すべてが無から自己を創り上げるということは、科学史上のどの実験も肯定している、ある原理に反します。 科学の営みの中核には、原因と結果の法則(因果律)があります。 つまり、十分な原因なしには何ごとも起こりません1。 しかし、その「ささいな点」は、見落とされています。

というわけで本稿では、人々の「前提(presuppositions)」について話します。 ここでいう「前提」とは、根本的仮定、または公理というもので、人々はいくつかの前提を証拠に持ち込み、それに応じて証拠を解釈します。 万物の起源について考えるとき、どの人も、[それらの前提に立脚した]世界観を議論に必ず持ち込んでいるということを忘れず、しかも、それを指摘することがとても重要です。 今現在の証拠自体はどの人も同じですが、万物の起源[つまり、過去]をどう仮定するか ― 何かの拍子で自己創造したのか、あるいは神が創造したのか ― によって解釈が異なってきます。

今現在の証拠自体はどの人も同じですが、万物の起源[つまり、過去]をどう仮定するか ― 何かの拍子で自己創造したのか、あるいは神が創造したのか ― によって解釈が異なってきます。

そういうわけで、「科学 対 宗教」とか「事実 対 信仰」ではなく、これはまさしく、ある信仰 対 別の信仰です。 誰かの見解とは、それが何であれ、単に「事実」ではなく、実は、それには証明できない一定の仮定(公理)が持ち込まれていること、また、その人が自分の世界観の証拠だと主張する事実は、その人の前提によって決まる解釈であることを、相手に提示してみせることが、間違いなく重要になってきます。

[誤りのない神の言葉である聖書を、書かれているとおりに信じる]聖書どおりの創造論者は、聖書が啓示する公理(例: 約6000年前にすべてが創造されたこと堕落が罪と死をもたらしたこと地球規模の大洪水があったこと)の観点から、事実/データを解釈します。 一方、別の公理の観点からは、現在の証拠がどう現れたかを説明しようとする別の世界史が、推論されます。 実際のところ、進化論とは、唯物論または自然主義 ― 存在するのは物質のみ ― という前提から推論された歴史に関するひとつの理念です。 別の言い方をすれば、カール・ウィーランド博士が今を遡ること1988年の記事で核心を突いたとおり、進化論者が前もって創造を排除するのは、結局のところ証拠によるのではなく、彼らが独断的に制定した唯物論的「ゲームのルール」に反するからです。

「事実」/証拠については?

各人が持ち込む前提が、万物の起源に関する論争においてこれほど重要であるとの認識は、創造論者の間では、大まかに「前提主義」(presuppositionalism)と呼ばれるようになってきました(証拠そのものが明白に物語っている、と素朴に思い込む「証拠主義」(evidentialism)と区別するために)。 前提主義は創造論の推進に非常に役立っています。 しかし、前提主義で行き過ぎてしまうことがありえます。 ある人たちは、ほとんど証拠は関係なく、解釈だけが問題であるかのように、「同一データ、別解釈」と言います。 この考えは、容易に「すべては脳内のこと」という一種のポストモダニズムに変質します。 すると、彼/彼女が同じ証拠を聖書に対応する視点から見始めることができるように、私たちクリスチャンにできるのはせいぜい、世界観を変えてもらうよう促すことぐらいです。 このアプローチの支持者らは、創造論・進化論という課題を避けます。 これに取り組んで、神を信じない人の前提では証拠を説明できないことを示すことによって、彼らの足をすくうようなことをするより、むしろ調和をはかることを好みます。

調和をはかるアプローチの支持者のなかには、「人間の論理[思考形式・法則]」そのものをさげすむことまでして、人間の真理、論理、および意味は、神のそれらとは違うと暗示する人たちもいます(明示的に議論することさえあります)。 原罪が人間の思考を完全に堕落させているので、新生していない人(つまり、クリスチャンでない人)には論理的思考は一切できないと彼らは決め込みます。 しかし、もしそうなら、ローマ人への手紙1:18~の明確な教えが無効になります。 もし、人々が不義をもって真理を押しのける18節)なら、押しのけるために、彼らは何が真理か、ある程度、わかっていなければなりません。 さらに、聖書は、神の存在を否定することに対して、彼らには「弁解の余地がない」と言っています(20節)。 もし、思考能力の欠如のため気付かないのであれば、彼らには弁解の余地があるということになります。

同様に、ペテロの第二の手紙3章に、「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて」、神が万物を創造したこととノアの大洪水で世界を滅ぼしたことを否定する、とあります。 彼らは「認めようとしない」と書いてあります。 これもまた、彼らは真実を知らないのではなく、真実を押しのけています。 これは意図的な無知であり、単なる無知ではありません。 神は、人々が知らない、あるいは気付いていないことに対してではなく、知っていること、つまり神は存在すると知りながら、故意に反することを罪に定めます。 これは紛れもなく、罪です。

要するに、神を信じない人は神と神の働きについての基本的な事実を察知しているが、押しのけている、と聖書は教えているのです。

論理の法則は普遍的か?

そもそも、他ならぬ創造主なる神が、その被造物である人間に理性を授けてくださったからこそ、人間はある程度、理にかなった考え方をすることができるのです。 理にかなっていることこそ、まさに、創造主なる神の性質そのものを反映しているのです。

すべての人がこれらのことを察知できるということは、論理/推論という一定の普遍的な原理があり、創造主なる神がそれらを私たち一人ひとりに組み付けたことを意味します。

18世紀の偉大なキリスト教弁証者ジョナサン・エドワーズの著作を熟考して、マーティン・マーフィーは「無矛盾律2、因果律3、および基本的に信頼できる感覚認識を有することが、真理を伝達するための必要不可欠な三要素である。」と書いています4。 このような論理の原理は、創造に伴う秩序の一部として埋め込まれたもので、被造物に現れています。 これら三つがすべて揃っていない場合、道路を安全に横断することすらできなくなります。 クリスチャンもクリスチャンでない人も一様に、道路を安全に横断できるのは、聖書が示す創造主なる神がすべての人に、生まれながらにこれらの推論の原理を授けてくださったからで、これらの原理によって、人は命題的真理も理解できるのです。

この論理は「組み付けられたもの」で、創造主の性質が被造物に現れている様式のひとつです(ローマ人への手紙1:19~)。 「一般恩恵」と神学者らが呼ぶ、神がすべての人に与えている恵みの一部とみなしてもいいでしょう。

聖書を解釈するには、聖書を解釈する方法についての理解を、聖書自体から得なければならないという議論があります。 「聖書解釈法」のひとつです5。 とはいえ、それに先行して存在する解釈法なしに、どうやって聖書から何か少しでも得られるというのでしょうか? その解釈法こそ、上述のマーフィーが列挙した普遍的な原理に根ざしたものにほかなりません。

神学者ハーマン・ホークセマがこの点をわかりやすく説明していますが、要するに、言葉において、「人間用の意味」とは別に「神用の意味」はなく、また、「人間の論理」とは別の「神の論理」というものもありません。 そうでなければ、聖書は神の真理を人間に全く伝えることができないものとなります(テモテへの第二の手紙3:15-17に書いてあるとおりです):

啓示の論理が私たちの論理と同じか、啓示はないか、のどちらかだ [人間には理解できないのであれば、それは啓示となりえない]6

創造主なる神のなせる業でなければ、私たち人間は理にかなった考え方をすることがまったくできないということは真実です。 そもそも、他ならぬ創造主なる神が、その被造物である人間に理性を授けてくださったからこそ、人間はある程度、理にかなった考え方をすることができるのです。 理にかなっていることこそ、まさに、創造主なる神の性質そのものを反映しているのです。 この天から授かった論理/理性がない場合、[見解の違いどころか]生きること自体ができなくなります。 誰にも弁解の余地がないのは、このためです。

この論理は、赤ちゃんにさえ認められます。 彼らは、まさかの状況に対して驚きの反応を示します。 研究者らが喃語期にある乳児に容器の中で跳ね回っているボールを見せました。 容器には、ボールが抜け出る穴がありました。 その穴からボールが、その動きを可能にする弾道を辿ることなく現れると、赤ちゃんたちは驚きを表しました。 そうした思考を定式化するとされる言葉をまったく持たないにも関わらず、赤ちゃんたちは論理的に考えていたのです7。 同様に、日本人の幼児の間でも、万物を創造した、目に見えない知的創造神の存在は信じられています8。 成人の日本人の仏教と神道の宗教にはこの創造主なる神の概念がないにもかかわらず、その日本の文化の中でさえこれは認められることなのです。 論理は天与のものであり、その論理から導き出される結論、例えば、神が存在するという結論は、押しのけられているにほかなりません。

世界観を変更するには…

何を信じるか、人にとやかく言われる筋合いはない!
クリスチャンでない人たちは、自分には先入観はなく、ただ「事実に向き合う」者だとよく主張するが、これは明らかに事実と異なる。 聖書に、創造主なる神を認めない人は「真理を押しのける」、と書いてある(ローマ人への手紙1:18~)。

基準に満たない世界観(宗教)を保持している人が、それと気付くためには、私たちクリスチャンは、どんな手助けができるのでしょう? 私たちの世界観の方が優れていると単に主張することでは話が進むことは期待できません。 私たちの世界観(聖書は神から人間への啓示であり、その主張はすべて正しいという公理から導き出される世界観)を受け入れるまで、人は理にかなった考え方をすることができない、と主張する人たちがいますが、それもまた、役に立ちません(前述のとおり、彼らは理にかなった考え方をすることが明らかにできます、しかも、幼児期でさえ)。 そうではなく、目の前にある共通の証拠に対して、あなたの友人の世界観では整然とした説明を与えることができていないことを、実例を用いて明示する必要があります。 言い換えれば、証拠も重要です

実際、整然とした世界観(聖書から導き出された世界観がこれに該当する)なら、私たちの周りに見えるものに対しての説明が成り立ちます。 つまり、「真理の一貫性[真理なら矛盾がない]」があります。 その一方、無神論などの世界観ではつじつまが合わないことを提示することができるのです9

有名な哲学者トマス・ネーゲル(クリスチャンではない)は、現代進化論による起源説(すなわち無神論者の創造神話)ではつじつまが合わないことを認めています。 評論家アンドリュー・ファーガソンが述べています:

彼[ネーゲル]の作業仮説は、今日の知的風土では、過激だ。 それは要するにこういうものだ: 唯物論的な新ダーウィン主義の正説が常識と矛盾する場合、これはその正説に問題があるのであり、常識に問題があるのではない。 ある推論の連鎖が自明の事実を否定する結論に導くとき、私たちはその自明の事実を捨てる前に、その推論の連鎖を再点検すべきだ10

これもまた、ローマ人への手紙1章を反映しています。 人々が神が存在するという事実を押しのけると、神は彼らをその虚しい考えのままに任せます: 「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」(ローマ人への手紙1:21

宇宙進化、つまり「すべては自然にできあがった」という現代の西洋世界の世俗的考え方が、これをあからさまに示しています。 科学と合理性の最も根本的な原理に反する、とんでもなく不合理な考えです11

唯物論/無神論は様々なレベルで失敗しています。 科学以外に知ることができる方法は無いと主張する無神論者が多いですが12、それを証明する科学的方法がないので、その主張自体が真実であるのかを知ることができません。 従って、この立場(「科学主義」)は自己を論駁しています。 数学と哲学で広く受け入れられているゲーデルの不完全性定理の当然の帰結のとおり、それ自体の正しさを証明できる知識体系はありえません。 言い換えれば、科学は、科学が有効であると証明することができません。 (余談ですが、無神論者スティーヴン・ホーキングが望んでいるような「究極理論」はありえません)。

科学をするのに必要な諸前提は、科学自体に由来するのではなく、科学の外のものに由来します。 実に、それらは聖書に基くキリスト教の世界観に由来します13

実際、整然とした世界観(聖書から導き出された世界観がこれに該当する)なら、私たちの周りに見えるものに対しての説明が成り立ちます。 つまり、「真理の一貫性[真理なら矛盾がない]」があります。

無神論者/唯物論者は私たちの存在は宇宙の偶然の結果、私たちの起源は、究極的には、偶然の出来事(例えば、生物進化では、突然変異は偶然の出来事)の結果だと信じています。 しかし、キリスト教弁証者C・S・ルイスが指摘したとおり、偶然という起源からは、その起源についての考えが信頼できる(偶然ではない)と信じる根拠が得られません14。この立場もまた、自己論駁に陥っています。

無神論の世界観では余り筋が通らない「事実」が多々あります: 例えば、利他主義、愛、知性の存在。 生物には、知的設計なしでは説明できないDNA言語コードなどの驚くほどのデザイン[設計された事柄]が見られます15。 生物学的特徴のほとんどが、特に分子レベルにおいて、還元不可能な複雑さを示しています。 これは、つまり、複数の複雑な構成部品が同時に揃っていないとその機能が果たせない、ということです16。 デザインは、今日の進化生物学者にとっては「部屋にいる象」です。 象は日に日に大きくなり、見て見ぬふりをするのは一層難しくなっています。

このほか、地球規模のノアの大洪水の圧倒的証拠や、何十億年という信仰体系に対して山積する問題点も挙げられます(例えば、どの「年代」の石炭にも見つかる炭素14や、何百万年前のものとされている化石に含まれる壊れやすい有機化合物の存在)。

ロブ・カーター博士のコメント:

「私たちの周りにある世界の説明として、創造論ははるかに優れていると思う。 創造論側は毎日のように複数の分野で大きく前進している。 ゲノムの複雑さ激変地質学宇宙論種分化気候放射性年代測定、等々についての学びが深くなるにつれ、私たちの立場は弱くなるどころか、ますます強くなってきている。 私は「前提主義者」であって、「証拠主義者」ではないが、私が創造論者であるのは、単に私がクリスチャンで聖書を信じているからではない。 証拠の重みが創造された若い宇宙を指している、と私は信じていることもあって、私は創造論者である。 私の前提は強固ではあるが、十分に正当化されていると思う。」17

以上のように、CMIが採っている哲学的アプローチは、解釈における前提と世界観の重要性を認識しつつ、現実世界の証拠を重要視し、証拠に対して真摯に向き合うものです。 私たちの立場は、いうなれば古典的前提主義(classical presuppositionalism)18といえるでしょう。 この立場は、人間の持っている前提によって人間の理解は重大な影響を受けるとはいえ、人間の考えによらない客観的な現実はある、ということを認めます(重力の法則を信じなくても、崖から落ちたらペチャンコになります)。 ある一つの世界観(聖書どおりの創造論)とその根底にある公理は、他の世界観(例えば、自然主義)よりも、現実に対して、より整然とした、合理的な説明を与え得ることを示すことの大切さも認めます。

適切なアプローチの利点

適切なアプローチは証しを効果的にします(コリント人への第二の手紙10:5ペテロの第一の手紙3:15)。 こうして、私たちは、神を信じない人それぞれの「段階」に応じて通じ合うことができ、しかもその人たちには論理的思考が一切できないと証明/暗示しようとすることで彼らを侮辱するようなこともしません。 また、ほとんどの人には通じない難解な哲学的議論を用いることもしません、そのようなことをすれば、証拠を避けている印象を与えかねません。

マーティン・マーフィーが書いているとおり、「キリスト教を弁証する者は、求道者のレベルに合わせて、話をしなければならない」19

これらのすべてにおいて、人が神に対する態度を変えることを可能にする上での、聖霊様の決定的な役割を認めます。 マーフィーは続けて言っています(強調は原文どおり): 「キリスト教の弁証そのものは誰も救えないし、救うことはない。 聖霊様の力強い働きこそが、人の心を変え得るものであり、実際に変えることができる。」18

誤ったアプローチ

  1. 証拠主義(Evidentialism) これは「証拠そのものが明白に物語っている」という立場である。 つまり、例えば、生き物に見られるデザインの証拠を提示しさえすれば、無神論者は創造神話(進化論)を捨て、クリスチャンになるだろう、というものだ。 もちろん、創造の証拠の方が優れていることは期待できる、ローマ人への手紙1:20に人々には「弁解の余地がない」と書いてあるのだから。 それに、証拠で説得された人たちも、確かにいる。 例えば、ソニア、また、CMIスタッフの ショーン・ドイル。 彼はクリスチャンになる前に創造論者になった20

    しかし、ある一つの「証拠」によって信者になった人がいるとしたら、その特定の証拠か論拠が、(創造論者にも、進化論者にも、時々起こるように)後に、もはや不要になるか、あるいは、その解釈か理解が誤っていたと示されたら、その信者はどうなるのか? 「証拠」の最新状況に応じて、信仰が浮き沈みする「証拠主義者のジェットコースター」(CMIスタッフのアンドリュー・ラームが命名した状態)に陥りやすくなってしまう(参照記事: そよ風に揺らぐ)。

    前提主義アプローチは、聖書は真実であり、究極的に福音は真実であることを肯定する。 これに対して、聖書を公理とせず、デザイン(例えば)だけに基く証拠主義的な論証だと、宇宙人が私たちを創造した、というような憶測の余地を残す恐れがある。

  2. 信仰主義 「信仰主義とは、証拠および/または論理的な理由を取り入れず、ただ信仰のみに完全に依存する立場である。」21,22 ヘブル人への手紙11:1を誤解して「信仰と証拠と何の関係があるのか?」と人々が言うのを、私は聞いたことがある。 中には、私たちが信じるキリスト教には証拠があるという観念に動揺する人もいる(証拠はあるのだ。 例: イエス様の墓は空っぽだった)。 彼らは、裏付ける証拠があると、自分の信仰が弱くなったような気がする。 「信仰」とは神からの称賛を得るものであり、信じることが難しいことであればあるほど神からより多くの称賛を得る、と考える教会の伝統さえある。 もちろん、信仰についてのこうした見解は、信仰とは神からの贈り物である、という聖書(エペソ人への手紙2章)の教えと矛盾するものであり、したがって信仰は私たち自身の努力によって生じると考える根拠はどこにもない。 信仰に関するこうした非聖書的な伝統があまりにも広く行き渡っているので、信仰とは朝食前にいくつ不可能なことを信じれるかを試している不思議の国のアリスのようなものだという印象を、神を嫌う人たちがしばしば受けていることは、驚くにはあたらない。 聖書に基く公理だけが、自己矛盾のない、しかも倫理とまさに科学そのものの合理的根拠を指し示す世界観を与え、一方では無神論は、この無神論者への返事に示したように、観察科学に反するいくつかの証明できない信念を、前提として受け入れざるをえないことを、示す必要がある。

  3. 重複しない教導権(Non-overlapping magisteria (NOMA)) フランシス・ベーコン、ガリレオ、近年の数名のローマ法王、さらにはスティーヴン・ジェイ・グールドといった複数の無神論者までもが、「宗教」と「科学」は、思考の領域(教導権)が別々で、重なり合うことはない、という考えを提唱してきた。 この二つは、競合も相互作用もしない、相互不可侵の関係であり、棲み分けできる、とされている。 ローマにあるシスティーナ礼拝堂の署名の間に、1500年代初期にラファエロによって描かれた壁画がある。 壁のひとつに描かれている絵は「哲学」を表し(これは科学を含む)、反対側の壁の絵は「神学」を表している。 これは「二つの教導権」の考えを要約していると言えるだろう。 「聖書は天国への行き方を教えるが、天体の動き方は教えない」という言葉もこの考えを反映している。 教会の信仰告白も、意図的ではないにせよ、この考えを反映していることがよくある。 例:「聖書は、信仰と生活との誤りなき規範なり」。 聖書が全知の創造主なる神の霊感によって書かれた言葉であるなら、聖書が触れているすべての事がらの記述に誤りがありえないことは確かだ。 では、聖書に書かれている歴史についてはどうか? 誤りなきものだろうか? イエス様は実際に死人のうちより甦ったのか、それともあくまで神学上の概念か?

  4. 神秘主義 これは、神は「(人間の)理性を超越している」ということを強調し、「信仰」に合理的思考は不要であるとし、真剣に考えることをやめて宗教的経験に集中するものである。 あるグループには、東洋の神秘主義(仏教/ヒンドゥー教)から借用した「ニュー・エイジ」の考えが忍び込んでおり、「心を空っぽにする」瞑想を「霊的平和」に達するための手段として推奨している。 しかし、聖書はにではなく、神の言葉に熟考するよう、命じている(詩篇119篇参照)。 イエス様は第一の戒めとして「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と述べている。 私たちは全身全霊で神を崇めることが求められている。

    ポストモダニズムは神秘主義の一種であり、人間の主観とは無関係の、客観的現実があることを否定する。 しかし、神は、他のすべての創造を終えた後の創造週の終盤に人類を創造し、その後「はなはだ良い」と宣言している(創世記1:31)。 これは、人の意見とは無関係に、被造物の大部分はすでに存在していたこと、神がその状態を客観的に評価したことを意味する。 (ちなみに、人類が創造された時点は、それから数千年後にイエス様が来られてマルコ福音書10:6で語られている時点から見れば、依然として万物の初めにあたる)。

参考文献

  1. Batten, D., “それは科学じゃないです”, February 2002; creation.com/its-not-science-japanese. 本文に戻る
  2. 無矛盾律: Aは同時に非Aではありえない(同じ文脈において)。 例: もし私が生きているなら、同時に私は死んでいる、ということはありえない(同じ意味で)。 本文に戻る
  3. 因果律: 原因と結果の関係。 すべての出来事には、十分な原因があるという原理。 本文に戻る
  4. Murphy, M., My Christian Apology: Apologetics: Explained and Applied, Theocentric Publishing Group, 2011. 本文に戻る
  5. 解釈法=[聖書に限らず]文章を解釈するのに用いられる方法または原則。 ここでは、聖書のある箇所が他の箇所を明らかにする、いわゆる「聖書は聖書によって解釈する」原則のことを言っているのではない。 CMIはもちろん、この原則に同意する。 例えば、創世記はどう解釈されるべきかについて考えるとき、聖書の他の箇所が創世記を歴史の記述として取り扱っていることがわかる。 したがって、これが私たちのアプローチを方向づけている。 本文に戻る
  6. Hoeksema, H., The Clark-Van Til Controversy (based on his Standard Bearer editorials from 1944–1946), p. 8, 1995; cf. also pp. 26, 27. 本文に戻る
  7. Téglás, E., et al., Intuitions of probabilities shape expectations about the future at 12 months and beyond, Proc Natl Acad Sci USA 104(48):19156–19159, 2007 | doi: 10.1073/pnas.0700271104. 本文に戻る
  8. Catchpoole, D., Children see the world as ‘designed’!, July 2009; creation.com/kids-designed. 本文に戻る
  9. これは、聖書に基く世界観の枠組みの中には、未解決の科学の難問がないという意味ではない。 人間の知識と理解にはいつも、そしてこれからも限界がある。 本文に戻る
  10. Nunn, W., Thomas Nagel—The atheist who dared to question materialism, March 2014; creation.com/nagel-materialism. 本文に戻る
  11. Batten, D., Although widely respected, the Grand Theory of Evolution is really quite preposterous, Creation 33(1):6, 2011; creation.com/evolution-preposterous. 本文に戻る
  12. 人間はどうやってものごとを知ることができるのかについての研究は、認識論として知られる正式な学問の分野である。 本文に戻る
  13. Reed, J.K., Rocks Aren’t Clocks, Creation Book Publishers, p. 47, 2013; and Sarfati, J., The biblical roots of modern science(近代科学の根源は聖書),September 2009; creation.com/roots. 今日、科学者が例外なくこれらの前提を受け入れているのは、ひとえに、それらが実際に機能するからであるが、聖書に基く世界観以外に、理路整然とその論理的根拠を提供しうるものはない。 例えば、なぜ、法則は人間が理解できるものなのか、なぜそれらの法則は不変なのか? あるいは、なぜここ地球の法則が遠方の銀河系でも適用すると仮定できるのか? 本文に戻る
  14. Accidental angle, Creation 21(2):47; March 1999. 本文に戻る
  15. Sarfati, J., DNA: the best information storage system, June 2015; creation.com/dna-best; and Williams, A., Astonishing DNA complexity demolishes neo-Darwinism, J. Creation 21(3):111–117, December 2007. 本文に戻る
  16. 例えば、ATP合成酵素「回転式モーター」、キネシン配達システム、RNAポリメラーゼ、生物に何百もある生化学経路のほとんど。 本文に戻る
  17. Genetics and geographical distribution, April 2011. See also Catchpoole, D., The importance of evidence, Creation 30(3):6, June 2008; creation.com/evidence. 本文に戻る
  18. Beisner, E.C., Classical Presuppositional Apologetics: Re-introducing an Old Theme, 2001, revised 2006, 34 pp.; ecalvinbeisner.com. 本文に戻る
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  20. See Bates, G., The ‘knockout punch’ syndrome, Creation 34(3):24–27, 2012; creation.com/ko. 本文に戻る
  21. CARM, carm.org. 本文に戻る
  22. Sarfati, J., Why use apologetics for evangelism?, January 2008; creation.com/apologetics-evangelism. 本文に戻る