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Creation  Volume 18Issue 1 Cover

Creation 18(1):36–37
December 1995

Charles Darwin's Religious Views
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ダーウィンは進化論を捨てたか?

著者: ラッセル・M・グリッグ
訳者: 佐野剛史

Photo: Warwick Armstrong

Lady Hope’s grave in Rookwood Cemetery, Sydney, Australia.

Lady Hope’s grave in Rookwood Cemetery, Sydney, Australia.

 チャールズ・ダーウィンは、1882年4月19日に73歳の生涯を閉じた。一部の人々にとって、ダーウィンが神を信じないままこの世を去ったことは残念な出来事だったようで、後にダーウィンは死の床で回心して進化論を捨てたという話が出てくるようになる。こうした話は教会の説教の中で言及されるようになり、早いものでは1882年5月に行われた説教で使われている[1]。その中でも有名なのはホープ夫人という人物が語ったとされる話で、1881年の秋に「ダウンハウス」[2]と呼ばれる自宅で寝たきりになっていたダーウィンを彼女が訪問したというものだ。その話の内容は、「ホープ夫人がダーウィンを訪ねると、ダーウィンは聖書の『ヘブル人への手紙』を読んでいたところで、夫人が創世記にある創造の記述について話をすると、ダーウィンは心を痛めた。そして、明日もここに来て、30人ほど入る庭の休憩所で、召使い、間借り人、隣人たちにイエス・キリストについて話してほしいと頼んだ」というものだ。この話が最初に活字になったのはアメリカのバプテスト系雑誌の『Watchman Examiner』誌[3]上で、それ以降、この話はさまざまな書籍、雑誌、トラクトに引用されている。

ダーウィンが進化論を捨てたとか、回心したとか喧伝されたのは、この話から勝手に読み込んだものか、自分ででっち上げた話にすぎない。

 しかし、このような逸話のすべてに共通して指摘される問題は、ダーウィンの家族がその話を否定しているということだ。息子のフランシス・ダーウィンは、1887年2月8日にトーマス・ハクスリー宛ての手紙の中で、父が死の床で進化論を捨てたという話は「間違っており、何の根拠もない」と記している[4]。また1917年にもフランシスは「父が不可知論者の立場を変えたと信じる根拠は何もない」と断言している[5]。ダーウィンの娘、ヘンリエッタ(・リッチフィールド)は、ロンドンで発行されている福音派の週刊誌『The Christian』の1922年2月23日版(p.12)で次のように書いている。「私は父の死の床に付き添っていました。ホープ夫人が死の床に就いている父を訪問したという事実はありません。父が病で伏せっている時に見舞いに来たことも一度もありません。父はこの夫人に会ったことすらないと思います。いずれにしても、彼女が父の思想や信念に影響を与えたという事実は一切ありません。死の床でも、それ以前でも、父が科学に関する自説を捨てたことはありません。この話は事実無根です」[6]。中には、ホープ夫人という人物の存在すら否定する人もいる。

 では、われわれはどう考えるべきだろうか。

Photo: Warwick Armstrong

The inscription on the gravestone.

The inscription on the gravestone.

 ダーウィンの伝記作家、ジェームズ・ムーア博士は、英国のオープンユニバーシティ(放送大学)で科学史を担当する教授で、3つの大陸を巡ってダーウィンに関する資料を20年間かけて調査した人物だ。博士は、ダーウィンにまつわる伝説を調べ上げ、218ページにわたる書物を記している[7]。博士によると、ホープ夫人は実在の人物で、1842年にエリザベス・リード・コットンの名で生まれ、先妻と死別した退役軍人、ジェームズ・ホープ提督と1877年に結婚した人物だという。ホープ夫人は、1880年代に英国ケント州で野外伝道や高齢者・病人の訪問伝道に携わり、オーストラリアのシドニーで1922年にガンで亡くなった。今でもシドニーには彼女の墓がある[8]。

 ムーア博士の結論では、ホープ夫人はおそらく1881年9月28日(水)と10月2日(日)の間に実際にダーウィンを訪問しており、その時にフランシスとヘンリエッタは不在だったことはほぼ確実であるが、ダーウィンの妻、エマはおそらくその場に居合わせていただろうということだ[9]。博士は、「ホープ夫人は話し上手で、心に訴えかける描写や会話術にたけており、感傷的な話で事実を脚色できる人物だった」と描写している[10]。ホープ夫人が公表した話には、時間や場所など、その話が事実であると思わせる詳細な内容が含まれているが、同時に事実としては不正確な内容も含まれている。ダーウィンは死の6カ月前には病の床についていなかったこと、ダーウィン邸の庭にある休憩所は30人が集まるには小さすぎることなどだ。しかしここで最も重要な点は、この話の中で、ダーウィンは進化論を捨てるとも、キリスト教を受け入れるとも言っていないことだ。ただ単に、ダーウィンは若い時に抱いた思索の行く着く先を心配していると言い、少数の人たちが宗教的な集会に参加することに賛意を表明したにすぎない。ダーウィンが進化論を捨てたとか、回心したとか喧伝されたのは、この話から勝手に読み込んだものか、自分ででっち上げた話にすぎない。ムーア博士はそのような行為を「聖なる偽造」と呼んでいる。

 注意する必要がある点は、ダーウィンの妻、エマは、結婚生活のほとんどの期間にわたってダーウィンの宗教心のなさに心を痛めており、もし本当にダーウィンが回心をしていたなら、彼女はその話が事実であると、必ず証言していたはずだということだ。しかし、彼女はそのような証言はしなかった。

 以上から、ダーウィンが進化論を捨てたという事実はなかったと思われる。ホープ夫人の話が、今でも善意の人々が作成し、配布するトラクトに引用され続けていることは残念なことである。

参考文献

  1. James Moore, The Darwin Legend, Baker Books, Grand Rapids, Michigan, 1994, pp.113–14. 戻る.
  2. ダウンハウス(Down House)は、ダーウィンの住んでいた村の旧名の綴りを使っている。ダウン(Down)村は、北アイルランドのダウン(Down)郡と混同されることを避けるために19世紀中頃に「Downe」に名称変更された。出典:参考文献1(p.176) 戻る.
  3. Watchman Examiner, Boston, 19 August 1915, p.1071. 出典:参考文献1、p.92–93およびp.190 戻る.
  4. 参考文献1、p.117およびp.144 戻る.
  5. 同上、p. 145 戻る.
  6. 同上、p. 146 戻る.
  7. 同上 戻る.
  8. ホープ提督が1881年に亡くなった後、ホープ夫人は1893年に慈善家のT. A. デニーと再婚したが、旧姓を名乗り続けた(参考文献1、p. 85、89–90)。 戻る.
  9. 参考文献1、p.167 戻る.
  10. 同上、p.94 戻る.

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