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そよ風に揺らぐ

論説

筆者:

Leonardo Pallotta (CC-by-2.0) via Wikimedia13451windswept-tree

創造論の主張にしばらくの間感動したかと思えば、後に同じくらい感動的に思える進化論の主張を耳にし、再び反対方向に傾く、という人たちが常にいる。 次に、創造論に立つ別の科学者が、前述の進化論の主張に反論することに成功するなどして、再びそうした人たちを魅了すると、彼らは再び逆方向に揺り戻される。 こうして、そうしたことが幾度となく繰り返される。

最近の創造論セミナーで、聴衆の中の一人の男性が、太陽が収縮しているという論拠を聞いたことによって、地球が若いことを示唆していることに納得できた、と言った。 その結果、彼は聖書を完全に信頼し始め、得たばかりの信仰に満足していた ― 知り合いのキリスト教教職者(おそらく米国のカルヴァン・カレッジの三人の講師によって書かれた本を信頼していた)が、その論拠は虚偽で、長期的な収縮の証拠はない、と彼を説得するまでは。 こうして、彼は告白していた信仰を失った。

興味深いことに、クリエーション誌掲載の三回シリーズの注意深い批評(第11巻 第1、、3号)によると、すべての証拠に基く最善の結論として、太陽はおそらくやはり収縮を続けていることを示唆している。 つまり、収縮率は、当初示されたものより小さいが、それでも進化論による期間に合わせるには急激すぎるのである。 では、このことは、前述の男性は信仰を取り戻すべきことを意味するのだろうか? ここで、彼がこのことに基いて信仰を取り戻すと仮定しよう。 もし、後にもたらされるさらに多くの情報が、太陽は結局まったく収縮していないか、または収縮が止まったことを示唆している場合、どうなるのだろうか? その場合、彼は再び信仰を捨てるべきだろうか?

この類の不安定さ、この「そよ風に揺らぐ」状況をどうやって避けることができるのか? この経緯から、教養のあるクリスチャンのなかには、起源に関する確信に至ることをあきらめ、この件に関して、一種の「キリスト教的不可知論」の立場をとる人たちがいる。 彼らは時には、この不確実性を美徳として誇ることすらある(次のように): 言うまでもないことだが、我々は過激主義や独断的な立場をとるつもりはない、科学とは暫定的で常に変わるものだからだ。 創造だったのか進化だったのかは、何とも言えない。 我々は、どちらである、というような安易な結論を出したりはしないのだ。

しかし、彼らは創造論弁証の本質を、あるいは少なくとも創造論弁証のあるべき姿をまったく見失っている。 彼らが言うとおり、新しい情報が現れるにつれ、科学は常に変わる可能性があるということは事実である。 だからこそ、私たちの信仰は論拠の上にではなく、神の言葉の上に立つものでなければならない。

今号のクリエーション誌では、物理学者ラッセル・ハンフリーズ博士による、地球(および宇宙)が若いことを示す素晴らしい証拠を列挙掲載している。 では、これらの証拠のうち、一つ二つが間違いであった場合はどうか? 創造科学の活動はすべて疑わしいことを意味することになるのか? (ところで、擬似反論に注意してほしい。 不十分か誤解を招く情報に基いている可能性がある。)

返答として、進化論/長い年月を支持する論拠は、絶えず手直し、または破棄されていることを指摘しておく。 読者の皆さんの親の世代は「ピルトダウン人」、人間の胚にあるとされる「鰓裂」、無用とされる「痕跡」器官(今ではその機能が知られている)などの論拠に納得し、進化論を信用したのかもしれない。 皆さんの子供の世代は、まったく新しい一連の論拠を聞いているが、おそらく孫の世代には、それらは再び全面的に見直されることになるだろう。

進化論の論拠は変わるが、進化論の基本的信仰体系(世界は何かの拍子で自然にできあがった、という信仰)は変わらない。 実は、これが戦いの本質の部分であり、この本丸、つまり信仰/信念レベルで、各人の決断がなされているのである。

創造論を推進する団体が証拠を提示するのは、聖書を証明するためではない。 というのは、人間の推論は不完全であり、様相を変える新しい情報が現れる可能性は常にある。 私たちが証拠を提示するのは、誤りなき神の言葉に啓示された、不可欠かつ相互に結合した真実(創造、堕落、および贖いなど)への信仰とは、筋がとおり、また知的に満足できるものであることを示すためである ― まったくの盲目的信仰ではない。

創造論者・進化論者のいずれにとっても、未解決の研究課題、主張の変化、および未解明の謎は、どうしても常に付きまとうものだ。 しかし、どっちつかずでゆらゆらすることによって、究極の真理への道は人間の推論によるのであって啓示によるのではない、という神話を支持してしまっている。 たとえ善意からにせよ、起源について「キリスト教的不可知論」という立場をとるならば、それは、啓示の記録が真実であることを暗に否定していることなので、中立などではまったくない。

クリスチャンに中立という選択肢があったことは、とにかくかつて一度もない。 そよ風に揺らぐことは、安定でもなければ、必要でもない。 イエス・キリストと御言葉に全幅の信頼を置くに値するだけの証拠の重みは、十分すぎるほどある。 そうする意志がある者は、そよ風に揺らぐことはない。