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創造主なる神は創造に何十億年かけたのか?

この問題はなぜ重要か?

筆者: ゲリ-・ベイツ

発行: 2011年10月6日 (GMT+10)
地質学の時間

人々は、よく、聖書どおりの創造論に立つ者に対して、次のような異議を唱える:「私は神が創造したと信じ、進化論は信じない。 でも、神が創造に何十億年をかけたことはあり得ると思う。 なぜそれほど地球の年齢にこだわるんだ?」。 神が万物を創造したのは「六千年前の、文字通りの六日間」だったことを強調するのは、人々がキリスト教を避ける要因にさえなっている、と言う人もいる。 そのため「なんだってそんなに独断的なんだ? 救いに関する課題じゃないそんなことを、なんだってそんなに力説するんだ?」と言われる。

驚かれるかもしれないが、私たちはある程度 同意する。 時間尺度 そのもの は重要なことではない。 ではなぜ、CMIはこの問題を重視するのか? それは、突き詰めると「聖書は、明白に述べていることを本当に意味しているのか」に行き着く重要な問題だからだ。 つまりこれは、聖書の信頼性の核心に触れる問題である。 したがって、長い年月との妥協[古い地球説]は福音のメッセージ全体を深く蝕み、結果として、多くの人には信仰の危機を、伝道には大問題を引き起こす。

長い年月という時間尺度の意味

先ず、古い地球、という観念はどこから来たかを理解する必要がある。 何百万年や何十億年という考えは聖書のどこにも見当たらない。 それは聖書の から持ち込まれた観念だ。 1830年に、スコットランドの法律家チャールズ・ライエルは、『地質学原理』を出版した。 彼は「モーセから科学(地質学)を解放すること」1を目的のひとつとして表明している。 ライエルは、世界の地質について斉一的解釈を提唱した地質学者ジェームズ・ハットンの考えを基盤にして、自らの考えを建て上げた。 ライエルは、地球の至る所に見られる数千フィートにもおよぶ堆積層(水やその他の流動体によって堆積したもの)は、何百万年や何十億年におよぶ、ゆっくりと徐々に進むプロセスの結果だと論じた(ノアの大洪水の作用の代わりに)。 彼は、地球の地質学的歴史を説明するには、現在観測されているプロセスだけを使うべきだと考えた。 つまり、例えば、河川を観察し、堆積物の増える割合が平均で年に1ミリだった場合、厚さが1000メートルもあるような堆積岩層(砂岩などから成る)はおよそ100万年かかって形成されたものに違いない、という解釈になる。 この「現在は過去を解く鍵」という前提(および同類の前提)が現代地質学の基本理念となった。 これは、聖書に記録されている水による地球規模大激変の拒絶を意味する。 「地質年代区分表」のそれぞれの地層に記されている何百万年は放射性年代測定方法の出現のかなり前、なんと、放射能そのものが発見されるかなり前に導入された。

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しかし、神学的な問題がここにある: その地層に入っているのは岩や砂利だけではない。 化石も入っている。 そして、化石が死の証拠であることに議論の余地はない。 しかも単に死の証拠というだけでなく、肉食と病気と苦しみの証拠でもある。 歯形がついている死骸もあり、他の動物を食べている最中に化石化した動物もある。 病気とガンと感染症の証拠、そして傷や骨折などの苦しみ全般の証拠がある。 聖書から、これらのものは堕落後に初めて起こり始めた、と私たちは理解している。 聖書には、詳細な系図が明記されているので、斉一説の死と苦しみの何百万年よりも前に、聖書のアダムが存在するということはありえない。 長い年月を受け入れる立場は、創造主なる神が人間の堕落前に死を制定したことをほのめかすが、聖書は、この世に死をもたらしたのはアダムの行為だった、とはっきり述べている(ローマ人への手紙5:12)。

『古い地球』の神

堕落前に被造物に死があったという考えは、神(創造主)の性格に重大な影響がある。 神(創造主)が進化を用いて創造した、と考える場合と同じ問題が生じるのである。 進化は偶然の非効率なプロセスで、何百万もの「適さない」生物の死を要する。 無数の移行型生物は、進化が「前進」する中での犠牲者として死ぬためだけに出現したことになる。 どこかの時点で、この「善」とされている神は死のくじびきを制定し、ようやく人間の出現を得た。 そして何十億もの死骸で満ちた層が幾重にも重なった地層の上に立っている自身のかたちを帯びた者を眺め、その創造した万物を ― 創造に投入されたその多大な死と苦しみの証拠とともに ― 「はなはだ良い」と宣言したことになる(創世記1:31)。 要するに、長い年月という考えは、進化論を信じる信じないに関わらず、聖書の見解には当てはまらないことがわかる。

この考え方を要約すると、地球の年齢は地層から推定された。 地層は化石を含むことから、死と苦しみと病気は、堕落前からあったことになる、というものだ。 一方、聖書はアダムより前に死は無かったことをはっきり告げている(ローマ人への手紙5:12)。

『古い地球』の福音

死・痛み
六日目の終わりに、神(創造主)は完成した万物を「はなはだ良い」と宣言した。 もし進化論が本当なら、アダムとエバは、創造主が「はなはだ良い」と言った何百万年の死と闘争の化石墓地の上に立っていたことになる。 聖書は死を最後に滅ぼされる敵と言い表している。

「専門家」と称されるある人たちは、堕落によって死と病気が及んだのは人間だけ だったと言って、この「はなはだ良い」問題を避けようとする。 しかし、それはあり得ない。 一つには、ローマ人への手紙8:19~22が、アダムの堕落による死と苦しみの呪いの影響が「被造物全体」(つまり、物理的宇宙全体)に及んだことを明確に教えているからだ。

しかし、仮に人間だけだったとしても、人間の遺骸で数十万年と「年代測定された」ものがある、という別の問題がある。 これは聖書のアダムよりずっと前のことになるが、聖書はアダムがエデンの園にいたのは今からおよそ6000年前である、と教えている。 妥協している立場の多くは、これらの遺骸を「前アダム人」 ― 魂のない非人間の動物 ― と見なす。 しかし、それらの遺骨は通常の人間のバリエーションの範囲内にある。 例えば、ネアンデルタール人には、芸術、文化、また宗教さえも示す遺跡がある。 さらに、最近になって実際のネアンデルタール人のDNAの配列解読により、私たちの多くがネアンデルタール人の遺伝子を保有することがわかっている ― つまり、彼らも私たちも、創造された同一の種類、人間である。 彼らを「非人間の動物」と呼ぶのは、長い年月の信仰体系をどうしても救済したい苦肉の策としか思えない。

また、ローマ人への手紙5:12 は「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ」と言っている。 堕落により、死が人間だけに及んだという表現はない。 ローマ人への手紙5の解釈を曲げて、死は人間だけに限られると言えば、アダムの罪は神(創造主)の被造物のうち、ただ部分的 堕落をもたらした、と言う意味になる。 しかし、ローマ人への手紙8:19~20は被造物全体が共にうめき苦しんでおり、また、虚無に服している、と言っている。 また、創世記3:17~19は、地そのものが呪われ、茨とあざみを生じた、と言っている。2 部分的堕落しか起こらなかったのなら、神(創造主)が、部分的回復ではなく、被造物全体を滅ぼして、新しい創造をもたらすことにしているのはなぜか? もし人間以外の被造物が依然として「はなはだ良い」なら、ただ人間だけを回復すれば十分ではないか?

死は最後の敵

死が最後に滅ぼされる敵であるということは、福音の中心をなしている部分だ(コリント人への第一の手紙15:26)。 死は罪の故に完璧な世界に侵入したのであり、その重大さは、信者が一人でも墓にいる間は、死に対するイエス様の勝利が完全に明らかにならないほどである。 聖書の記者らが敵と言い表しているものが、何百万年にわたって神(創造主)によって利用・監視された後、「はなはだ良い」と宣言された、と信じることが期待されているのか?

この復活と、被造物の元の完璧な状態への回復が、福音の主要部分で、私たちが抱いている希望だ。 聖書は、新しい天と新しい地は肉食も死も苦しみも罪もない所である、と明確に教えている(イザヤ書65:17~25ヨハネによる黙示録21:1~5)。 しかし、そういう状態が元々なかったとしたら、どうして回復と呼べるだろうか?

堕落前の死を受け入れると、キリスト教の神学がどうなるか、進化論者である英国国教会の司祭の発言によく表れている:

「…化石は現代人(ホモ・サピエンス)が進化によって出現する前に何十億年にわたって生きていた生き物の死骸だ。 死は、ほんの一瞬を除き、生命そのものと同じく古くからあった。 従って、神(創造主)が罪に対して定めた罰のはずがあろうか? 化石記録は、いつの時代も、悪が何らかの形で存在していたことを示している。 大規模レベルでは、自然災害で明らかだ。… 個人レベルでは、痛みを伴うひどい病気や寄生虫の活動の証拠が多々ある。 生き物が、関節炎、腫瘍、または単に他の生き物に食べられ、死に瀕して苦しんだことがわかる。 時間の初めから、生と死、善と悪、は常にあった。 途切れたことは一度もない ― 死が初めて現れた時も、悪が万物の性質を変えた時もなかった。 神は、世界を今あるように造った…変化と多様性をもたらす進化の仕組みとともに。 罪を犯すまで、アダムは神と完璧な関係を持っていて、その元々あった関係を回復するために、私たちはただ悔い改めて、イエス様を受け入れればいい、と我々に教えようとする人々がいる。 しかし、そのような完璧さは元々なかった。 そのような完璧な世界など初めからなかった。 現実的に、あるいは霊的に、それに戻ろうとするのは、妄想だ。 残念ながら、その妄想が未だに多くの福音伝道説教の中心にある。」3

このように、進化論が有っても無くても、何十億年を受け入れると、それに続く [歯止めが効かない]滑りやすい坂が見えてくるのは、堕落前に死と苦しみを置くことによるのである。 論理的に自然な流れで、堕落前に悪も据えることになる(この見解では堕落というものはない ― 堕落していなかった状態がないから)。 そして、元々なかった状態に戻ることはあり得ないから、完璧な状態に戻れる、という希望が除外される。 こうして、福音そのものが破壊されてしまう。

それで、死・苦しみ・罪・神(創造主)から離れることから私たちを救うためでないなら、イエス様は何のために来られたのか? もし、死と流血がアダムより前の何百万年もの間に「自然の」プロセスとして起こっていたなら、「…ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。 血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」と言っているヘブル人への手紙9:22のような聖書箇所は、どう捉えたらいいのか? もし死と流血が正常なことなら、キリストの死は無意味で、私たちの罪の代価にならないものになる。 また、もし私たちの希望が復活と新しい天と新しい地にあるのでなければ、私達の希望は何か?

死がただ自然なことなら、私たちはなぜそれほど嘆き悲しむのか? 私たちが、死を人生の「当たり前」のこととして受け入れることができないのはなぜなのか。 この見解は、福音からその力を、イエス様の犠牲からその意義を、奪い取るものだ。 この考えを当然の結論までたどった結果、これまで多くの人がキリスト教を完全に放棄するに至っている。

教会への影響

進化論が広く教えられている現状は、教会の青年たちに、悲惨な結果をもたらしている。 群れをなして青年が教会から去っていく事態が続いている。 「踏みとどまってはいる」が何十億年を受け入れているクリスチャンは、自分の信仰を弁明するのに、何十億年を受け入れないクリスチャンより、もっとつらい思いをすることになる。 こうして、教会の成長に影響が出る。 弁明する際の大きなつまずきの一つは、この質問である: 「善なる神(創造主)なら、なぜ世界中の死と苦しみを許すのか、答えよ」。 何十億年を抱えている信者は、死と苦しみの起源は人間の罪に対する応答だと的確に説明することができない。

一方、世界の歴史を、聖書に沿った見解で見ている信者は、聖書の背景を持たない人々に神(創造主)を紹介できる論理的基盤を持っている。 ちなみに、パウロが同様な異邦人の聴衆に説教しようとする時に使ったのが、まさにこのアプローチだった(使徒行伝14:15~17、17:23~31)。 ルステラで、パウロは、単なる人間にすぎない自分やバルナバと違い、神は万物の創造者であることをキーポイントとして使った。 アテネでは、彼は当時のストア派や他の哲学者らが虚しい偶像礼拝から悔い改めることを望み、彼らに真実なる神(創造主)を紹介できる土台を据えようと、「創世記まで」彼らを連れ戻した。

これらの考えはどうだろう?

Could the days in Genesis be long periods of time?

Are there gaps between Genesis 1:1 and 1:2?

Is a ‘soft gap’ defensible?

Is Genesis just a literary framework?

Is Genesis Poetry?

Is the seventh day eternal?

Isn’t ‘a day like a thousand years’ to God?

Doesn’t Genesis 2:4 use a ‘non-literal’ day?

Were there literal days before the sun?

Could the days of Genesis be ‘days of revelation’?

Aren’t there two contradictory creation accounts?

Is ‘Progressive Creation’ biblical?

聖書を書いてあるとおり信じることが福音を説明する能力を強化する一方で、妥協がこれほど悪影響を及ぼすなら、なぜ妥協を選ぼうとする人たちがいるのだろうか? 聖書どおりの時間尺度よりも長い年月を信じる理由を展開するキリスト教の指導者と神学者の事実上全員は、創世記は ― ヘブル語でも、どの英語訳でも、額面通りに読めば ― 単純明快な通常の六日間(普通の長さの日)の創造を教えている、ということを認めざるを得ない。 というのは、これは十戒の一部 出エジプト記20:11 で強力に裏付けられているのである。 創世記の日々は通常の長さの日として理解されたことを示している。 何百万年の余地はなく、聖句に差し込む隙間もない。 しかし、残念ながら、彼らは科学が何百万年をどうにか「証明した」と思い込んでいる ― 事実はそうではないのにである。

一貫性のないキリスト教?

クリスチャンでありながら古い地球を信じることは可能ではあるが、それはその立場が最終的に導く結果まで考え抜いたことがないか、その人の信仰の究極的な権威が聖書ではないことを示している。 もし、創世記が実際にあった、文字通りの歴史でないなら、聖書の真実が結局どこから始まるかを、何によって決定しようというのか? 今日の「科学」は、人間は死んでよみがえることはない、ということも「証明している」。 従って、もしその同じ科学の説明、イエス様はよみがえらなかった(これは妥協者の世界観と一致)、を受け入れるなら、パウロが書いたように、「わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(コリント人への第一の手紙15:14)ものとなる。 人間が作り上げた考えに信頼を置くことは、イエス様がマタイによる福音書7:26で描写した人に似ている: 「また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう」。 逆に、24~25節で、イエス様はこう述べた:「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。 岩を土台としているからである。」

最後に、イエス様が明らかに創世記を文字通りの歴史として信じていたのだから、私たちもそうすべきである。

参考文献

  1. Charles Lyell, personal letter to George Poulett Scrope, 14 June 1830; 参照: creation.com/Lyell 本文に戻る.
  2. ちなみに、化石記録にとげもある。 化石記録の一般の解釈(地球規模の大洪水を否定する解釈)では、これらのとげは人類の出現より『何百万年』前と見なされている。 参照: W.N. Stewart and G.W. Rothwell, Paleobotany and the Evolution of Plants (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1993), p. 172–176. 本文に戻る.
  3. Tom Ambrose, ‘Just a pile of old bones’, The Church of England Newspaper, A Current Affairs section, 21 October 1994. 本文に戻る.